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手前写真: マルセル・ジュノー博士の肖像 (©赤十字国際委員会アーカイブ - ARR / s.n. / s.d. / V-P-HIST-02894).
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ムーズブルグのスタラグ VII-A 収容所を訪れるジュノー博士と収容所の責任者たち (©赤十字国際委員会 / s.n. / 10.11.1939 / V-P-HIST-00883-24).
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広島平和記念公園にある故ジュノー博士の顕彰碑 (©赤十字国際委員会アーカイブ - ARR / CHESSEX, Luc / 06.1995 / V-P-HIST-E-00163).
マルセル・ジュノー(1904~1961)
中国地方 | 広島市
歴史上の人物・場所
「助けを呼んでいる人たちは数知れず、彼らのその声はあなたに向かっているのです。」-マルセル・ジュノー(1982年)
運命の月曜日
西日本は、普段と変わりない、あたたかく晴れた朝を迎えていました。しかし、午前8時15分に異変が起きます。突然、大閃光が差し、直後に爆発音が襲ったのです。一瞬で、地域は焼け野原と化し、何万人もの人が命を落としました。1945年8月6日に、世界で初めて原子爆弾が広島に投下されたのです。3日後には、長崎にも原爆が投下されました。
原子爆弾投下後の広島 (©赤十字国際委員会アーカイブ - ARR / NAKATA, Satsuo / 08.1945 / V-P-HIST-00260-08).
第二次世界大戦の終盤の混乱と、連合軍司令部によって引き起こされたブラックアウトにより、広島の被害状況は明らかにされていませんでした。実際は、広島の医療従事者は、破壊的な被害に圧倒されるばかりか、放射線障害にどう対応してよいのか分かりませんでした。 加えて、対原爆投下の数日後に襲来した台風により状況はさらに悪化しました。
白十字、赤十字
研修医マルセル・ジュノー、ミュルーズで (©Benoît Junod, スイス)
広島の被害については、写真や報告書を通して、日本に来日したばかりのスイス人医師に伝わりました。惨状に驚愕した彼は直ちに急遽派遣団を編成し、広島に駆け付けます。9月8日に広島に到着した、初じめての外国人医師、マルセル・ジュノーでした。彼の名は、「ヒロシマの恩人」としてその後ずっと心に刻まれ、語り継がれることになります。
ジュノー博士、エチオピア内戦時に航空機の前で (©赤十字国際委員会アーカイブ - ARR / s.n. / 1935-1936 / V-P-HIST-E-07037).
1904年にヌーシャテルで生まれ育ったマルセル・ジュノーは、20代のほとんどを医療に従事して過ごします。31歳の時に、赤十字国際委員会(ICRC)の派遣員となりました。赤十字国際委員会は、戦争や武力紛争およびその他暴力の伴う事態によって犠牲を強いられた人々に対して人道的保護と支援を行うことを目的とし、1863年にジュネーブにて設立されました。その後の10年間、ジュノー博士は、戦争で荒廃したエチオピア、スペイン、ドイツ、ポーランドに出向き、負傷者や戦争捕虜を命がけで救済しました。ジュノー博士は、その過程で赤十字国際委員会の多くの同僚が命を落とすかたわら、略奪や、無差別爆弾、一般市民に対するマスタードガスの使用などを目の当たりにしました。
ジュノー博士、スペイン内戦時にヴァランスからバルセロナへの道で (©赤十字国際委員会アーカイブ - ARR / s.n. / 1937 / V-P-HIST-01849-18).
ムーズブルグのスタラグ VII-A 収容所でフランス人捕虜たちの代表と通訳者に会うジュノー博士 (©赤十字国際委員会 / s.n. / 10.11.1939 / V-P-HIST-01717-07).
1945年にジュノー博士は、連合軍捕虜が国際条約に基づいて処遇されることを見届ける任務を担い、次なる目的地の日本に飛び立ちました。しかし、彼に待っていた任務は、それだけに留まりませんでした。
東京で戦争捕虜の日本事務所を訪れるジュノー博士 (©赤十字国際委員会アーカイブ - ARR / s.n. / 08.1945 / V-P-HIST-00261-09A).
アメリカの調査団や日本人医師を伴い、15トンの医療品を携え、広島に赴いたジュノー博士は、地域の救護所をくまなく訪れ、衣料品の分配を行うとともに、手術医として自ら治療に携わり、多くの人命を救いました。欠乏していた医療品が、現地の医療スタッフに提供されたことは、大変重要な出来事でした。ジュノー博士は、原爆被害の写真を、赤十字国際委員会を通して、世界中に公示しました。
広島から永遠に
新潟で日本・朝鮮半島間の帰還事業を監督するジュノー博士 (©赤十字国際委員会アーカイブ - ARR / s.n. / 08.1959 / V-P-HIST-E-03876).
5日後に広島から東京に戻ったジュノー博士は、彼の体験に基づく惨状を描写すべく執筆にとりかかります。のちに「The Hiroshima disaster」と題され、1982年に国際赤十字委員会より出版されます。1950年代には、健康状態の悪化により、ジュネーブに戻り、麻酔の仕事に従事するかたわら、赤十字国際委員会の代表者を務めました。1961年6月16日に生涯の幕を閉じましたが、その際には、赤十字国際委員会に3000以上の弔辞が寄せられました。
マルセル・ジュノー博士の肖像 (©赤十字国際委員会アーカイブ - ARR / s.n. / s.d. / V-P-HIST-02893).
ジュノーはこの世から去ってしまったものの、原爆投下後、被爆した人々を救うために奔走した「ヒロシマの恩人」は今もなお慕われています。1979年9月8日、ジュノー顕彰碑が広島平和記念公園に建立され、毎年、ジュノーの命日には、ジュノー記念祭が開催されます。2010年には、生まれや経歴にかかわらず献身的な救助を行ったジュノーの生涯を描写した、アニメーション映画「ジュノー」(64分)がスタジオ雲雀によって制作されました。
広島平和記念公園にある故ジュノー博士の顕彰碑 (©赤十字国際委員会アーカイブ - ARR / s.n. / 18.06.1995 / V-P-MON-E-00040).
2010年5月11日に公開された映画「ジュノー」 (©スタジオ雲雀)
人道主義のシンボル
今日においても、ジュノー博士は、人道的活動に携わる人たちに影響を与え続けています。その中には、2011年の東日本大震災を含む災害や、多くの戦争に対して要請されたスイス人道援助団も含まれます。 スイス国としても、ジュノーの理念に沿い、平和、人権、国際人権法、法の支配を推し進めていきます。
スイス人道援助団は世界中で活動しています (©DDPS / Dominique Schütz / VBS/DDPS - ZEM Urheber).
国際赤十字赤新月社連盟が100周年を迎える2019年に、在日スイス大使館は、「人道的活動のパートナー」というプログラムを実施します。これは、学術シンポジウムやソーシャルメディア上のキャンペーン、日本赤十字社と合同で開催する象徴的なイベントなど、日本とスイスの両国が行う人道的活動の面での協働に焦点を当てたものです。ここでシンボルとなるのは、間違いなくジュノー博士でしょう。
広島は長い時をかけて復興し、今日では平和都市として知られています