• 手前写真: フランソワ・ペルゴの肖像 (©ピキユー・ガルデ・コレクション)

フランソワ・ペルゴ(1834~1877)

関東地方 | 横浜市

日本・スイス間初の条約締結前に来日したスイス人時計職人の歩んだ驚くべき道のりを辿ります。

パイオニアの誕生

フランソワ・ペルゴの肖像 (©ジラール・ペルゴ・アーカイブズ)

1864年2月、スイスの特使と徳川幕府の代表者により修好通商条約が締結されました。この二国間合意が土台となり日本とスイスの特別な関係は発展し、スイス製時計の日本への輸出が可能となりました。しかし実は、時計の輸出はこの時から始まったわけではありませんでした。この長年待たれた条約締結の時点で、すでに何年も日本で時計のビジネスを営んでいた1人のスイス人時計商人がいたのです。その人物こそ、フランソワ・ペルゴ(François Perregaux)です。

1860年頃のル・ロックル。F. ブルカードによる版画 (©ジラール・ペルゴ・アーカイブズ)

ペルゴは1834年6月25日、スイス北西部のル・ロックルという小さな町で時計職人の家庭に生まれました。1847年の父親の他界を受け、ペルゴと2人の兄弟が父親の家業を継いだ時、この地域は既に時計製造業で知られていました。しかし当時、時計業界の仕組みは現在とは異なっていました。生産は各地に分散し、産業化も行われておらず、結果として時計商人には生き残るために不可欠な新市場を開拓するだけの財力がもたらされていなかったのです。そうした数々の問題を克服し、ペルゴ兄弟は程なくスイスで最も国際的な時計メーカーの1つとして台頭することになるのでした。

西洋から東洋へ

ニューヨークのH. ペルゴ & Co.社の名刺 (©ジラール・ペルゴ・アーカイブズ)

ニューヨークでの6年間にわたる業務を終え、フランソワ・ぺルゴは1859年春にスイスに帰国しました。その間に彼の故郷は大きく様変わりしていました。ル・ロックルとラ・ショー・ド・フォンの間には産業化推進のため鉄道が敷設され、兄弟たちは他の強力な時計メーカーと合併してジラール・ペルゴ(Girard-Perregaux)を設立していました。時計製造業組合(「ユニオン・オルロジェール」、以下WU)も設立され、特に輸出を担当するオフィスを海外に設けることで、スイス時計製造業の利益推進に努めていました。

フランソワ・ペルゴと、彼の友人でありアシスタントだったハンゾウ (©ジラール・ペルゴ・アーカイブズ)

帰国後間もなく、24歳のぺルゴはWUからある重要な経済的使命を任されました。それは、プロシア生まれの作家で外交官だったルドルフ・リンダウ氏(1829-1910)の支援のもと、アジアに輸出オフィスを設置することでした。こうして時計商人ペルゴは1859年4月20日にル・ロックルを後にし、一路シンガポールに向かいました。一方のリンダウは船で直接日本に向かい、外交関係樹立を試みましたが、これは失敗に終わりました。その1年後、このプロシア出身の仲間の後任を務めるよう求められて横浜に向かったペルゴは、1860年12月になってようやく、フランス領事の保護により日本上陸が許可されました。実に彼は、日本列島に足を踏み入れた最初のスイス人の一人となったのです。

生き残り、そして繁栄

ジラール・ペルゴ代理店 F. ペルゴの広告 (「ザ・ジャパン・ガゼット、ホング・リストとディレクトリー」1877年1月1日)

フランソワ・ペルゴにとって、日本でのビジネスは開始当初から大変な困難に直面しましたが、それは文化や言語の違いが要因のものばかりではありませんでした。まず、当時の日本の時刻測定システムはヨーロッパとはまったく異なっていました。加えて、オルゴールや腕時計、置時計、装飾品や宝石などは、まだ日本では一般消費財と認められてはいませんでした。それらの品は、大量輸入によってやがてその価格と魅力が下がるようになるまで、国民の大半にとっては高価過ぎる珍しい物とみなされていたのです。そうした状況下でWUのアジア・オフィスは1863年7月に解散し、2年後には組合自体も解散しました。

フランソワ・ペルゴの肖像 (©ピキユー・ガルデ・コレクション)

1866年頃の横浜の地図。地図上の黒い丸が示す通り、ペルゴは136と138の区画を使用 (©スイス連邦公文書館、ベルン E 6 / volume 36, file 169)

WUによる任務から開放されたペルゴは日本に留まることにしました。後に彼は時計技術や宝石、輸入品(ジラール・ペルゴ社から)、そして修理や調整を扱う会社として、F. ペルゴ & Coを1865年に設立しました。オフィスは横浜の本村通り(現在の中華街)にあり、そこでは当時250人弱の外国人商人(うち8名はスイス人)がそれぞれの業務に従事していました。地震や強盗などに襲われることがあっても、今度こそ成功させようと彼は決意を固めていました。

フランソワ・ペルゴによって日本に輸入された両面レピン型時計。「ジラール・ペルゴ ショー・ド・フォン」の署名入り (~1877年) (©ジラール・ペルゴ・ミュージアム)

フランソワ・ペルゴによって日本に輸入されたレピン型時計。「ジラール・ペルゴ」の署名入り (~1875年) (©ジラール・ペルゴ・ミュージアム)

その前年の修好通商条約締結のおかげで、ペルゴはビジネスを関東地方に拡大することができました。日本の急速な産業発展と鉄道敷設、さらには1873年1月1日に西洋の時刻測定システムが正式に採用されたことによって、腕時計は日本人にとってより便利で手ごろな存在となりました。すぐに国民の過半数が腕時計を身につけるようになり、特にジラール・ペルゴの時計を持つ人たちは目に見える精密機構に魅了されました。こうしてスイスからの時計輸入は急速に増大し、ペルゴはそれらを日本人好みに合わせていきました。並行して、彼は1868年と1869年にはスイス領事館領事代理を務める一方で、炭酸飲料の工場も所有していました。

炭酸飲料工場の広告 (L’Echo du Japon, 1875年4月29日)

この世を去っても、語り継がれていく功績

不幸にしてフランソワ・ペルゴの成功は長く続きませんでした。1877年12月18日、43歳のフランソワ・ペルゴは脳卒中のため他界しました。彼の亡骸は横浜外国人墓地に葬られ、現在でもそこに墓が残っています。彼の死の知らせは、彼と友情を育んでいた多くの外国人や日本人の顧客がいた横浜の街に衝撃を与えました。彼の私生活についての記録は現在残っていませんが、娘のエリザの隣に眠っていると言われています。

横浜の外国人墓地にあるフランソワ・ペルゴの墓 (©ジラール・ペルゴ・アーカイブズ)

それから150年以上を経て、フランソワ・ペルゴの忍耐が実を結んでいます。ソーウインド・グループのおかげで、現在ジラール・ペルゴの腕時計は日本中で手にすることができるようになったのです!さらに彼の功績を讃え、フランソワ・ペルゴ・アワードが2014年に創設され、彼に劣らないパイオニア・スピリットを具体化している人々に特製の時計が授与されています。果たして24歳のペルゴは、その後始まる日本への旅がこれほどまでの伝説を生み出すことになると、思い描いていたでしょうか?

2015年12月18日: 名ピアニスト上原ひろみが第2回フランソワ・ペルゴ・アワードを受賞し、ジラール・ペルゴのアントニオ・カルチェCEOから賞が手渡されました (©ジラール・ペルゴ・アーカイブズ)

出典:ジラール・ペルゴ(2009)「フランソワ・ペルゴ ー 日本におけるスイス時計製造業のパイオニア」、ラ・ショー・ド・フォン、ジラール・ペルゴ、65ページ