エメ・アンベール=ドロー(1819~1900)

関東地方 | 横浜市

ビジネスマン、政治家、旅行者としてスイスと日本の二国間関係の確立のために奮闘したエメ・アンベール=ドローの足跡をたどってみましょう。

新な市場を求めて

江戸時代の末期は、政局は不安定で混迷の時代を迎えていました。江戸幕府は、内部紛争に加え、幕府を倒して新政権を望む尊王攘夷派の革新的勢力と対峙する一方、開国を強硬に求める外国の列強からの圧力にさらされて、1853年、神奈川に米国の艦隊が到着した後は、幕府の勢力は急激に弱まりました。その結果、日本は、不平等な条約を締結することとなり、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスとの関係において、経済的・戦略的観点から不利な立場に立たされました。

スイスでは、これらの動向は産業界に十分に知らされていましたが、使節団の日本派遣については、ベルンにある連邦政府は鈍い反応しか示しませんでした。当時、日本は外交上の優先事項ではありませんでした。 実際、ドイツ生まれの作家であり外交官でもあるルドルフ・リンダウ(1829-1910)とスイスの時計メーカーのフランソワ・ペルゴー(1834-1877)は、時計商社を日本に設立することを目指しましたが、失敗に終わっていました。しかしながら、エメ・アンベール=ドローは、またとないスイスにとってのチャンスを見逃すべきではないと判断しました。

ヌーシャテルから横浜へ

(©gallica.bnf.fr / フランス国立図書館)

スイス北部のラ・ショー・ド・フォンにある時計メーカーの家で生まれたエメ・アンベール=ドローは、徐々に昇進し、ヌーシャテルの州議会上院議員とスイス時計組合(ラ・ショー・ド・フォンおよびル・ロックルから集まった約50名の時計職人による会社)の会長を歴任するまでにいたりました。彼の政治任務の終わりに差しかかった1862年に、アンベールは日本の状況を見て、機が熟したと感じました。スイスの時計メーカーが、この新しい市場に早く進出すればするほど、停滞気味のスイスの時計産業の業績が良くなることを実感していたのです。

横浜のオランダ・スイス領事館、1862年頃

アンベールは、スイスの連邦参事会に説得し、日本との条約交渉を進めるために、特命全権公使として代表団とともに来日することに成功しました。 145日間の航海の後、1862年11月17日に長崎に到着し、その後1863年4月26日に横浜に到着しました。そこで、弁天地区にある、オランダ総領事ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポールスブルック(1833-1916)の公邸に滞在することになりました。10ヶ月にわたる、江戸幕府との交渉は不成功に終わり、スイス政府の判断で、彼の任務は解任されようとしていましたが、オランダの外交官の仲介もあって、任期の終盤で条約を締結することができました。

後に東京と改名された江戸の町を歩く外国人外交官たち

1864年2月6日、アンベールと幕臣で外国奉行の竹本甲斐守は、「スイス連邦参事会と日本国大君間で締結された修好通商条約」に調印しました。これにより、スイスと日本の友好関係が成立し、経済活動が始まりました。スイスの時計、武器、精密機器産業の繁栄につながっていきます。

「スイス連邦参事会と日本国大君間で締結された修好通商条約」の抜粋 (©スイス連邦公文書館)

極東アジアの見聞録

伝統音楽の演奏者たち

アンベールは、幕府との交渉を何度も試みるかたわら、多くの自由時間を持つこともできました。日本に魅了された彼は、日本列島の名所や日常生活を網羅した、3,668点の色刷りの浮世絵木版画、書籍、写真、絵画を収集しました。これらの文書のうち2,000以上が、ヌーシャテル民族学博物館に保管されています。

将軍の家臣と衛兵

牛頭天王を祀る行列

アンベールは、スイスに帰国後、1866年から1869年の間、週刊誌「ツール・デュ・モンド」(「世界一周」)に、日本での見聞記を連載しました。批判的でもあり、賞賛にも満ちてる、この長い文書は、476点の挿絵を含む、856ページの2巻にまとめられ、「Le Japon illustré(日本図絵)」、Hachette、1870)と題して出版されました。 当時、極東アジアに関する文献はほとんどなかったので、彼の出版物は、19世紀後半のヨーロッパにおいて、極東のイメージを形成する上で大きな役割を果たしました。

洗練された日本文化はすぐに西洋で日本ブームを巻き起こしました

ヌーシャテルの大学教員として晩年を過ごしたアンベールは、ヌーシャテルで生涯の幕を閉じました。81歳でした。2014年6月19日、両国は外交関係樹立150周年を記念し、スイスの大統領ディディエ・ビュルカルテは、皇太子殿下を故郷のヌーシャテルに招待しました。皇太子殿下は、アンベールのひ孫娘であるクリスティアーネ・ロゼロンと出会いました。世代を超えて、アンベールが残したスイスと日本の長きにわたる貿易と友好関係のレガシーを皆で祝いました。

2014年: 徳仁皇太子殿下がアンベール=ドローのひ孫クリスティアーネ・ロゼロンと面会 (©ヌーシャテル民族学博物館/Alain Germond)