• 手前写真:カミーユ・ゴルジェ公使 (©Gorgé family archives)
  • 執務室でのカミーユ・ゴルジェ公使 (©Gorgé family archives)
  • 趣味の一つ、絵画を楽しむカミーユ・ゴルジェ (©Gorgé family archives)

軽井沢町旧スイス公使館(1944~1945)

中部地方 | 軽井沢町

カミーユ・ゴルジェにとって日本への赴任は、彼の外交官としてのキャリアの頂点になるはずでした。太平洋戦争から軽井沢時代に至るまで、それは間違いなく最も重要な時期となりましたが、それは公使の想像をはるかに超える過酷なものだったのです。

日本とスイス公使

カミーユ・ゴルジェの外交パスポート、1939年後半 (©Gorgé family archives)

太平洋戦争が始まった時、日本にいた諸外国外交官はどうなったのか、考えてみたことはありますか?1930年代終わりには多くの外国人居住者が大日本帝国を後にしましたが、スイスの公使館員を含む一部は現地に留まりました。スイスと日本との外交関係は1864年にさかのぼりますが、当初は領事館、そして1906年からは公使館が設けられていました。小国スイスは強国ではないことから、外交上の礼儀に従い、日本には大使ではなく公使(大使に次ぐ地位)が東京のスイス公使館を率いる立場の外交官として駐在していました(最初は麹町、1942年以降は三田)。

三田のスイス公使館 (©Gorgé family archives)

1940年2月15日、新たな公使としてカミーユ・ゴルジェ (1893-1978) が東京に赴任しました。初めて日本に滞在した1920年代以来、日本の文明を世界で有数の魅惑的で洗練されたものとみなした彼は、自身が駐日公使となることを夢見ていました。しかしながら彼は、1940年代の大日本帝国では、軍部による独裁と当時蔓延していた外国人排斥により、これまでで最も困難なミッションの一つとなることにすぐ気が付くことになります。

カミーユ・ゴルジェ、妻のロジーヌと在日スイス公使館の職員 (©Gorgé family archives)

最後の一人となっても

太平洋戦争の開始とともにそうした状況はさらに悪化し、日本に留まっていた200名のスイス市民は出国することができず、中立国の国民でありながら、逮捕や強迫、投獄、拷問、そして配給などを日増しに体験するようになりました。それでもスイス政府はゴルジェに対し、在日スイス市民の保護に努めるとともに、終戦後の同国におけるスイスの存在を考慮し、日本に留まるよう求めました。日本の憲兵隊との緊迫した会合から、自宅で開催したスイス建国記念日の祝賀まで、ゴルジェ公使はスイス市民の権利を保護し、士気を高める努力を怠りませんでした。

1941年2月7日:スイス人教育者・改革者のヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの写真を長田新教授に渡すカミーユ・ゴルジェ。長田教授は日本でペスタロッチの手法を広めた (©Gorgé family archives)

カミーユ・ゴルジェが描いた多くのスケッチの一つ (©Gorgé family archives)

しかし、中でも何よりも重要なこととして、ゴルジェと公使館員たちにはもう1つ、とてつもなく大きく重大な使命がありました。それは当時、日本と戦争状態にあった友好諸国との「周旋」役を担うというものでした。つまりそれは、共通の利害に関わる事項に関して、大日本帝国と連合国の間の「利益保護国」(protective power)となることを意味しました。結果としてゴルジェは、日本の官僚たちと定期的に会合し、市民や外交官、戦争捕虜の交換を取りまとめていました。彼は合衆国や英国をはじめ、複数の連合国の名の下で交渉を行い、国際条約の尊重を確保しました。

執務室でのカミーユ・ゴルジェ公使 (©Gorgé family archives)

奇妙な休暇

1944年の夏、日増しに頻発化する連合国による爆撃を受け、大日本帝国政府は東京にいた外国人居住者とその家族を全員、使節団の外交高官のほとんどが休暇用の別荘を所有していた、長野県の山中にある軽井沢に疎開させました。日本人の前田栄次郎(1874-1961) いうビジネスマンが1942年に建設した深山荘という大型の別荘が、カミーユ・ゴルジェとスイス公使館の新しい事務所となり、以後1945年まで使用されることとなりました。

カミーユ・ゴルジェ、妻のロジーヌと彼らの運転手、日本アルプスで (©Gorgé family archives)

軽井沢のカミーユ・ゴルジェの家 (©Gorgé family archives)

日本の降伏後、1945年秋のスイス公使館の建物 (©軽井沢市 / 筑波大学)

食糧不足と憲兵隊による監視はあったものの、軽井沢に疎開してきたスイス市民の中では一人として空襲の被害には遭いませんでした。しかし、日本国外務省により外国人居住者のニーズに対応するための分所が村内に開設されるまで、スイス市民は日本政府からほとんど食糧配給を受けることはなく、スイス政府から何とか届く少数の外交用郵便袋(たとえば、食料や緊急用品、文書など)に頼らざるを得ない状態でした。それでも軽井沢の地元の人たちは、戦前から外国人居住者と接することに慣れていたため、公使館やスイス人コミュニティとも温かく接していたと伝えられており、それはまさに戦争という極めて困難な時でも、スイスと日本の友好が屈することなく存続したことを示す何よりの証拠と言えるでしょう。

軽井沢の思い出

現在のスイス公使館の建物 (©軽井沢市 / 筑波大学)

日本の降伏を受け、スイス公使館は東京に戻り、領事関連の任務でアメリカ市民を支援する形で利益保護国としての責務を果たしました。その後外国からの公使館および大使館はすべて連合軍最高司令官の命によって解散となり、以後日本政府との連絡を許可された外交使節はなくなりました。少数のスイスの外交官たちは代表者として残り、のちにスイス大使館(Embassy of Switzerland)となる新たな外交用の場所の設置に従事しましたが、カミーユ・ゴルジェ自身は次の外交の任地先となったアンカラへと向かいました。深山荘がどうなったかと言えば、軽井沢市当局によって2億1,000万円(およそ200万スイスフラン)で2007年に購入され、前所有者による取り壊しを免れました。この建築物は2015年、正式に軽井沢町の指定有形文化財(建造物) として登録されています。

東京での任務を終えた直後の1946年初頭、スイスの新聞に日本での体験を語るカミーユ・ゴルジェ (©Gorgé family archives)

1947年、カミーユ・ゴルジェは1940年1月7日から1945年10月2日までの報告書や日記を自身の回顧録として編纂しました。この回顧録は、2018年にスイスのフリブール大学の研究者グループの手によって要約・注釈付きバージョンが、また全文版は「スイス外交文書」よりオンラインにてそれぞれ出版されました。ゴルジェの回顧録「Journal d'un témoin - Camille Gorgé, diplomate suisse dans le Japon en guerre (1940–1945) 」(「目撃者の日記 ― 第二次大戦期の駐日スイス外交官、カミーユ・ゴルジェ (1940-1945)」, フランス語)は、戦時中の日本における個人の体験が明確に描かれ、スイス-日本の二国間関係に関する新しく、かつ貴重な視点をもたらしてくれるでしょう!

ピエール=イブ・ドンゼ、クロード・ハウザー、パスカル・ロッタ、アンディ・メートル(編): 「<目撃者の日記> ― 戦時下(1940-1945)の日本にいたスイス人外交官カミーユ・ゴルジェ」、Quaderni di Dodis 10、 ベルン 2018年、dodis.ch/q10

出典: Pierre-Yves Donzé, Claude Hauser, Pascal Lottaz et Andy Maître (編): «Journal d'un témoin». Camille Gorgé, diplomate suisse dans le Japon en guerre (1940–1945), Quaderni di Dodis 10, ベルン 2018.